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環境権

環境権の意義

石原「最近、憲法改正して、『環境権』を憲法の中に盛り込もうとする議論が、特に公明党を中心に出ています。今回は、このような環境権論について議論してみたいと思います。まず、環境権を憲法上書き込む意義について話してくれる?」

山本「はい。日本国内をみれば、60年代以降の高度経済成長期を経て、深刻な公害問題が起きてきました。世界的にみても、地球の温暖化、オゾン層の破壊、森林の消滅、酸性雨、動植物の絶滅の危機など、様々な環境問題が起きています。そのような中で、日本では、70年代以降、『良き環境を享受し、かつそれを支配しうる権利』という、いわゆる『環境権』を憲法上の権利として認めていこうとする動きが出始めます。憲法25条のいう、『健康で文化的な最低限度の生活』を送るには、『良き環境を享受し、それを支配しうる権利』が必要なのではないか、と。しかし、裁判所は、現実にこのような『環境権』を承認していません」

石原「大阪空港公害訴訟の二審では、飛行機の発着をストップさせる判決があったけど、この判決は『環境権』を認めたことにはなりませんか?」

山本「確かに、大阪空港訴訟の二審で、大阪高等裁判所は、航空機騒音で苦しむ周辺住民のことを考えて、夜間の飛行機の発着等をストップさせました。しかし、このとき大阪高裁は、その差止の根拠を『人格権』の侵害に求め、『原告ら主張の環境権理論の当否については判断しない』と述べています。しかも、この上告審で、最高裁は差止請求を却下しています」

石原「なるほど。裁判所は『環境権』という権利を一貫して認めていない。となると、環境問題に対する裁判所の判断はまちまちとなりませんか?」

山本「ええ、そうです。裁判所は、確かに国による環境破壊をストップさせることもありますが、『環境権』という権利を承認したわけではない…。ですから、石原さんがおっしゃるように、実際にはケースバイケースの判断にならざるを得ないのではないかと思います。その意味で、『環境権』を憲法の中にしっかりと謳い、裁判所による救済を強化するという議論もなくはないと思います」

環境権を「自由権」として認めることの問題

石原「でも、ちょっと待って。裁判所が『環境権』を認めてこなかったの理由は何ですか? 裁判官だって、『環境問題が重要だ』とは考えているはずだから」

山本「ええ、確かに…。裁判所が、憲法上の『自由権』の一つとして 、(*1)つまり、国家による環境侵害に『やめて』と言える権利として『環境権』を認めてこなかったのは、『環境権』の内容が漠然としているからだ、と指摘されています。『環境権』は、確かに『良き環境を享受し、かつそれを支配しうる権利』と定義されるのですが、この場合の『環境』には、大気・水・日照などの自然環境だけでなく、景観や遺跡などの歴史的・文化的環境も含むのか、その侵害に関して訴訟を提起できるのは誰か(どの範囲か)といった問題がはっきりしません。それを決めることなく、『自由権』的に『環境権』を認めた場合、現実に様々な不都合が生じるかもしれません」

石原「…確かに、『環境権』の権利者を確定しないまま、それを認めてしまえば、ある場所での開発について、そこから何百キロも離れたところに住む住民が『やめて』と訴えることもできるかもしれない。そうなると、必要な公共工事はかなり制約を受けることになる…。どこからでも『環境権の侵害』として訴えられてしまうわけだからね。確かに無駄な公共工事はあって、それをチェックする必要はあるが、地域にとってはどうしても必要な公共工事もある。例えば空港の拡張とか。それを、『環境権』によって、どこからでも、誰でも訴えられるとなれば、およそ公共工事は立ち行かなくなるかもしれない。さらに、漠然としたまま『環境権』を認めれば、企業による開発や、個人の財産を逆に制約することにもなるかもしれない」

山本「その可能性は否定できませんね。例えば、『良き環境』の中に、『良き生態系』ということまで含めれば、動物だって『環境権』を持つことになる。現に、鹿児島県のゴルフ場開発に対する県知事の許可を争った裁判で、開発によって絶滅の危機に瀕する『アマミノクロウサギ』が原告となったこともある 。(*2)もちろん、これは裁判所によって却下されましたが…。こうなれば、やはり一方の経済的自由を制約することは否めません。また、原告を動物としないまでも、例えば、猪をこよなく愛する人が、猪の狩猟を『環境破壊』の一つとして捉え、『環境権』によって猪の狩猟禁止を主張することもありうる。この場合、猪好きの人の『環境権』を守ることは、狩猟を趣味とする人の幸福追求権(13条)を制約することになりますね。実際にそこまで猪好きの人はいないかもしれませんが…(笑)」

石原「とにかく、『環境権』はその内容があまりに漠然としているから、どこまでも拡張されることがありうる。従って、それを『自由権』として憲法に書き込んだ場合には、様々な問題が生じるということだね。果たして公明党が主張する『環境権』は、そのような自由権的側面を含んでいるのだろうか? 今後、議論してみたいと思います」

環境権の社会権的側面(国家に対する環境保護義務)

山本「ただ、『環境権』を自由権的に認めることは難しくても、社会権的に認める余地は残されています。つまり、個人の自由権として環境権を規定するのではなく、国家が環境問題に取り組むことを要求する、ある種の『社会権』として規定することは可能だ、ということです」

石原「なるほど。個人に対し直接『環境権』を認めるのではなくて、憲法上、国家に対して、環境問題に取り組む『義務』を課すわけだね」

山本「はい。憲法で国家の環境保護義務を規定することによって、国家は今よりも環境問題に積極的に取り組み、環境保護法制を整備することになるかもしれない、というわけです。確かに、93年の環境基本法では、法律レベルで国家に環境保護義務を課していますが、憲法レベルで義務を課しているわけではありません。仮に憲法レベルこの義務を明記すれば、立法者に対して与えるインパクトはそれなりにあるかもしれません」

石原「海外での環境権については?」

山本「ええ。ドイツは94年の憲法改正で、憲法上、国家の環境権保護義務を規定しています。すなわち、基本法20a条は、『国家は、将来の世代に対する責任からも、憲法的秩序の枠内で立法により、かつ法律及び法に基づいて執行権及び裁判により、自然的生存基盤を保護する』としています」

石原「なるほど。ドイツの憲法では、『人権』というかたちで『環境権』を保障するのではなく、『将来の世代のため』の国家目標というかたちで環境保護の規定を置いているわけだ。ところで、この『自然的生存基盤』って何を意味するのですか?」

山本「『それなしには比較的長期にわたる生存が持続し得ないようなすべての財がこれに属する』とされており、水や空気、一定の動植物や天然資源が含まれると言われています。つまり、歴史的環境や社会的環境は含まない。ちなみに、『将来の世代』には人間だけでなく動物も含むとされ、この憲法規定をきっかけに、動物保護法までもが改正されたと聞いています」

石原「へぇ、なるほど。ドイツでは、こうした環境保護義務を置いて問題は起きていないの?」

山本「そのようなことはあまり聞いていません。そもそもドイツでは、日本とは逆に、『建築不自由の原則』があって、この規定を置く以前から、建築それ自体に多くの規制が課せられていました。従って、このような憲法改正はわりとすんなり受け入れられたのではないでしょうか」

石原「ヨーロッパの文化を感じます。ヨーロッパには街並みを維持しようという伝統があるから、国民も抵抗無く、むしろ街並みの景観を守る為に抵抗なく受け入れている。日本では戦後来『建築自由の原則』があるから、もしかしたら、こうした規定に対する違和感があるかもしれない。だけど、逆に言えば、だからこそ日本国憲法にそのような規定を置く意味があるかもしれない。明治維新以来、中央集権国家体制の基、中央で集めたお金を交付金や補助金の形で地方にばら撒いて、高速道路やダムや海岸線のテトラポットやら自然を破壊し、セメントで国土覆ってきた日本の状況を考えると、憲法上、国家に対して、環境問題に取り組む『義務』を課す時期が来たのだと思う。米国メリーランド生まれで、日本での生活が長い作家のアレックス・カーの著書『犬と鬼』(講談社)の中でも、日本のセメント漬けの状況を警告しているし、僕の選挙を応援してくれた有線ブロードバンドの宇野秀康社長も「日本はどの地方にいっても同じような街並みで面白くない」と言っていたが、各地方が地元の自然を活かし、街並みを整えてゆく時代だと思う。」

山本「それは言えるかもしれませんね。ちなみに、ドイツのような環境保護規定は、イアリア憲法9条2項や、スイス憲法2条、スペイン憲法45条などに見られます。このように考えると、環境保護に関する『国家目標』を憲法上書き込む国は少なくないと思います」

まとめ

石原「よくわかりました。つまり、個人の自由権として『環境権』を書き込むことには色々と問題があり、それを規定している国は少ない 。(*3)その一方で、憲法上、環境保護のための『国家目標』を規定する憲法は比較的多く見られる。」

山本「それにより、立法者による積極的な環境政策を促すことになるかもしれません。例えば、環境保護規定を憲法の中に持つイタリアが、環境設置法という法律で、環境保護団体に行政訴訟における原告適格を認めている例などが注目されます」

石原「これからの世代を担う政治家として、環境問題はとても重要な課題だと思う。例えば、(1)石油や森林資源など、発展途上国から様々な資源を提供してもらっている日本が、その発展途上国の環境破壊にどのような責任を持つのか、(2)環境の悪化の『ツケ』は、当然、未来の世代が負担することになるが、その調整はどうするのかといった問題は、政治家として真剣に取り組まなければならない問題です。そのとき、憲法の中に国家の『環境保護義務』を規定する意味はあるかもしれない。今後は、今日の検討を踏まえて、環境権規定を憲法に加えようとする論者と活発に論議していきたいと思います」

*1 自由権とは、国家による侵害を『やめて』といえる権利をいう。これを「国家からの自由」と呼ぶ場合もある。例えば、表現の自由、信教の自由、自己決定権などは、一般に「自由権」に属する。この場合、国家は「悪役」(自由の敵)として描かれる。それに対し、社会権とは、国家に対し『何とかしてくれ』と請求する権利をいう。これを「国家による自由」と呼ぶ場合も在る。例えば、生存権、教育を受ける権利などは、一般に「社会権」に属する。この場合、国家による『援助』によってはじめて自由が達成されるので、国家は「正義の味方」として描かれる。

*2 いわゆる「アマミノクロウサギ」訴訟。鹿児島地判平成13・1・22判例集未登載。 アメリカの州憲法の中に若干見られる。

*3 例えば、フロリダ州憲法2条7節、イリノイ州憲法11条は、『環境権』を規定している。