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9条改正論(1)

イントロダクション

石原「横田めぐみさんの遺骨が他人のものであることが、DNA鑑定で明らかになって以来、アメリカ、韓国等と協調し、北朝鮮に対する経済政策を実施すべきという意見が、アンケート調査で7割近くを占めるようになった。しかし、実際に経済制裁を実施し、窮鼠猫を噛むではないが、北朝鮮が武力行使に出てきた場合、憲法9条の問題に関わる危険がある。それは、日本の排他的水域外で、アメリカ軍が北朝鮮に攻撃された場合、日本の自衛隊は何もしないのかという点だ。六カ国協議の数カ国(勿論、日本、アメリカが参加することを前提)が経済制裁を行い、追い詰められた北朝鮮が日本の排他的水域外で、アメリカ軍の軍艦や、軍用機に攻撃を仕掛けたらどうすべきか、勿論、日米同盟の重要性から、これを日本への攻撃と捉え、アメリカ軍と共に軍事行動に出るべきであるが、憲法9条の問題が出てきてしまう。その様な危機感もあり、いよいよ、今回から憲法9条に関する議論を始めたいと思います」

山本「なるほど、わかりました。いよいよ本丸、という感じですね」

石原「今回の議論は、本来集団的自衛権まで及ぶが、今回は射程を絞り、自衛戦力の保持いかに、という点に限定する。日本の国際協力のための集団的自衛権については、来月議論することにしましょう」

9条の構造

石原「まず、9条改正論をわかりやすく概説してほしい」

山本「わかりやすく、ですね…。あまり自信がありませんが、がんばってみましょう。まず、現在の日本国憲法は、以下のように規定されています」

日本国憲法第91 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和主義を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
日本国憲法第92 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

石原「日本人たるもの誰もが知っていなければならない有名な条文だ」

山本「確かに、知名度でいえばナンバー1かもしれませんね。ただ、一般的に言って、大学の憲法の講義の中で一番長く時間を割くか、といえば、そうではありません。私自身も、政治的イデオロギーを強く含むところなので、概説的な説明にとどめています」

石原「それはよくない。憲法学者がきちんと正論を述べる必要がある」

山本「そういう意見もあるかもしれませんね。その回答はまた後にします。ここでは、9条の一体何が問題になるのかを述べていきます。上の9条の第2項を見てください。これを見ると、2項は『戦力を持ってはいけない』と言っています。しかし、日本には現実に『自衛隊』という『戦力』が存在する。これは憲法に反するのではないか。こういう主張が、まずはあります。さらに言えば、自衛隊の前身である『警察予備隊』(昭和25年)に関しても、それが9条2項に反するという主張があり、昭和27年、日本社会党所属の鈴木茂三郎から訴訟が提起されたこともあります(いわゆる警察予備隊違憲訴訟)。その後も、自衛隊は戦力だ、だから9条2項に反して違憲だ、という主張はなくなっていません(恵庭事件、長沼事件、百里基地事件)」

石原「そこで最高裁はどのような判断を下しているの?」

山本「実は、きちんとその合憲性・違憲性について判断していません。全部その核心的な判断を避けています。例えば、警察予備隊訴訟では、具体的な事件は起きてないではないか、だから裁判所がその合憲性について審査することはできない、として請求を却下しました。恵庭事件では、自衛隊法という法律レベルの解釈で事件は解決するのだから、何も自衛隊の合憲性についてまで憲法判断する必要はない、と判示しました」

9条2項の解釈

石原「確かに、国を左右する問題を裁判所に判断されてしまってはいささか聊か困る。民主主義国家として、裁判所のそのような消極性もわからなくもない。ところで、9条1項では『国際紛争を解決する手段』としての『戦争』を否定しているだけで、自衛のための戦争は何ら放棄していない。自衛戦争は認める趣旨だ。だとすれば、2項の『前項の目的を達するため、戦力を保持しない』というのは、単に侵略戦争のために戦力をもってはいけない、と謳っているだけで、自衛のための『戦力』は否定していないのではないか」

山本「なるほど。そういう考えをとる人もいますね(自衛戦争許容説)」

石原西部邁氏がそうだ。西部は『第二項の意味は、日本語を素直に読めばというよりも、どこを読んでも普通の日本語の理解からいえば、侵略戦争をしないためにいわば陸海空軍その他の戦力はこれを保持しないという文章としか読めない』と断言している」

山本「ただ、憲法学者の多くは、そのような解釈をとっていません。2項の『前項の目的』を、1項の冒頭部分『正義と秩序』とリンクして考える。つまり、戦争を放棄するに至った動機まで含めて解釈し、結局、『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求』するため、およそ『戦力』と呼びうるものの保持は禁止されると解釈するわけです。確かに、仮に自衛戦争のための『戦力』であれば保持してよいという西部流解釈(自衛戦力「当然」許容説)をとった場合、憲法は他に、戦争ないし軍隊を予定した規定をもっていて然るべきです。しかし、現行憲法には66条2項以外にそれらしき規定はない。このように、憲法全体の構造からみても、あるいは石原慎太郎氏から『醜悪』と批判されている憲法前文を含めて考えても(*1) 、現行の9条2項は、一切の『戦力』の保持を禁止したと考えた方がむしろ素直かもしれませんね(*2) 」

石原「しかし、そのような憲法界の多数説を採用すると、いまの自衛隊の合憲性は余計に苦しくなるのではないか」

山本「そうですね。そこに改憲論の源があります。自衛隊は、人員や装備、編成等の点で、それを『戦力』と考えてもおかしくないですものね(下記、表を参照)。むしろ、一般な感覚からすれば、『疑いなく、あれは戦力だ』ということになりましょう。だとすると9条2項に反して違憲になる。そうなると誰が国を守るのだ。誰も守るものがいなくなる。ならば、2項の方を改正して、憲法上『自衛のための軍隊』を正面から認めた方がよいのではないか。と、こういう議論が出てくるわけです」

自衛隊の主要装備(平成15年度防衛白書「日本の防衛」)

a  戦車・主要火器

種類無反動砲迫撃砲野戦砲ロケット弾
発射機等
高射機関砲戦 車装甲車
保有機数3,1901,8807501,7001101,020980

b   主要艦船

種類護衛艦潜水艦機雷艦艇哨戒艦艇輸送艦艇補助艦艇
数(隻)5416317826142
基準排水量
(千トン)
203402713097398

c  主要航空機

区分護衛艦機雷艦艇輸送艦艇
形式固定翼回転翼固定翼回転翼固定翼回転翼
基準排水量
(千トン)
164959910744717
うち戦闘用 89(対戦車)  361 

d  自衛官の定員・現員

区分陸上自衛隊海上自衛隊航空自衛隊総合幕僚会議合計
定員163,30045,82647,2801,854258,290
現員148,22644,37545,4831,722239,806
充足率(%)90.896.896.292.992.8

2項改正論

石原「読売新聞が2004年11月17日にリークした自民党憲法調査会会長の保岡衆議院議員の憲法改正案(12月のHPで説明した通り、飽くまでも保岡氏の叩き台)では、以下の様に規定しています。

第四章 平和主義及び国際協調 第一節2項 『戦争の放棄と武力行使の謙抑性⇒日本国民は、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としてはこれを放棄する⇒自衛または国際貢献のための武力行使であっても、行使は究極かつ最終の手段であり、必要最小限の範囲でおこなわなければならいにこと深く自覚しなければならない⇒武力の行使を伴う活動を行う場合、事前(緊急時は事後)の国会承認を要し、手続き及び基準・制限は、二項の趣旨に基づき法律で定める』
第八章 国家緊急事態及び自衛軍 第二節 自衛軍 1項 『自衛軍の設置と武力行使の謙抑性⇒国家の独立及び国民の安全を守るため、首相の最高指揮監督権の下に、個別的または集団自衛権を行使するための必要最小限の戦力を保持する組織として、自衛軍を設置する⇒自衛軍による武力行使は、究極かつ最終の手段で、必要かつ最小限の範囲でおこなわなければならないことを深く自覚しなければならない』

更に、読売新聞の2004年改正試案では、『日本国は、自らの平和と独立を守り、その安全を保つため、自衛のための軍隊を持つことができる』と謳っている。PHP研究所社長の江口克彦氏の改正私案によれば、『日本国は、自らの独立と主権を守るとともに、国際社会の平和に寄与するため、国軍を保持する』とある。保岡衆議院議員、江口氏共に改正私案は集団的自衛権にまで踏み込むものであり、その議論は来月に回さざるを得ないが、いずれにせよ、日本が当たり前の独立国として、自衛のための『軍隊』を保持することは当然だ。絶対的平和主義を唱えるのは勝手だが、国家に対して責任ある政治家がやることではない。日本が平和主義をとっても、相手国が平和主義をとる保証はどこにもないではないか。だとすれば、憲法上正面から軍隊を認めて、国民の安全を責任もって守るべきだ。ガンジーの無抵抗主義が何を生んだかといえば、結局はイギリスによる統治。国際政治において、平和主義、人間主義が理想だとしても、現実的にパワーポリティクスの部分を無視できない」

山本「慎太郎氏が乗り移ったように見えましたね(笑)。確かに、外交努力や郡民蜂起だけでは国民の安全は守れないかもしれません」

石原「おっしゃる通りだ。いままさに北朝鮮情勢が緊迫化しつつある中で、いくら外交努力だ、といっても何も始まらない。話し合いが通じる国であれば話は別だが。だとすれば、やはり自衛隊を軍隊として、しっかりと認識する必要がある」

山本「憲法学的にいっても、実は現行の9条が、自衛権そのものを否定しているとは考えられていません。そうであれば、自衛権を行使するための『実力』を備えることはできるし、その必要はあるかもしれませんね」

石原「それは悪名高き政府解釈(笑)。」

政府解釈

山本「確かに…。政府は、昭和30年頃から一貫して、『自衛のための必要最小限度の実力』は、2項の禁止する『戦力』にはあたらないと解釈してきました。昭和29年に新たに自衛隊法が制定された後、第一次鳩山内閣の頃です。国会では、自衛隊は軍隊であり、違憲ではないかが激しく議論されました。そこで政府は、この批判にかわす論理を編み出したわけです。つまり、『実力』という概念と『戦力』という概念を分けて、自衛隊は『実力』だから違憲ではない、と」

「実力」「戦力」?

石原「まったく詐術もいいところだ。自衛隊は誰がどう見ても『戦力』なのに、それを堂々と言わない。結局、現実を正当化するために誤魔化している。これが『解釈改憲』と揶揄される理由だ。これがまかり通っては、憲法は現実的必要性のために何とでも解釈できてしまう。これは『法の支配』を重んじる憲法学者としても問題なのでは?」

山本「なるほど。ある見方をすれば、憲法をないがしろしている、だから即刻改正すべき、ということになるでしょうね。また別の見方をすれば、憲法を厳格に守れ、だから自衛隊そのものを即刻解散させるべきだ、という論理になる。戦後の憲法学界では、確かにこのような左右の陣営が存在していました。しかし、いまの若手憲法学者は、あまりそのような対立に興味がないように思えます。わりと冷めているかもしれませんね。右か左ではない。戦争か平和ではない。関心は、9条の解釈としてどこまで許されるか、にあると思います」

石原「それは憲法学者として無責任だ。それは9条の問題を放置しておくということを意味する。今の状況が憲法上許容されているとすれば、それは憲法の『最高法規』としての性格を逆に無視しているのではないか。『実力』なら許されるとしても、『実力』と『戦力』との区別が曖昧である以上、結局なんでもありになってしまう。これは逆に権力の暴走を招く。やはり改正して法治主義を復活させるべきだ」

2項の規範的性格

山本「なるほど。確かに『実力』という概念は曖昧ですね。政府は、他国に侵略的な脅威を与えうる『攻撃的武器』を保持せず、自衛のための必要最小限度の実力を保持するに留まる限り、それは『実力』であり、『戦力』には当たらないと解釈している。しかし、『攻撃的武器』と『防衛的武器』の違いは実際には困難ですよね。核兵器でさえ、『防衛目的』であれば保持できることになる。確かに、核兵器の保持は憲法上禁じられているわけではありません。いわゆる非核三原則は、憲法上の規定ではなく、あくまで政策論上の原則です(*3) 

石原「ならば、結局、2項はあってないようなもので、解釈によってどこまでも可能ということになる。『実力』しか持てないとしつつ、世界の中でも有数の軍事力を持つという矛盾。もはや9条2項の規範的性格はゼロに近いのではないか」

山本「しかし、9条2項は本当にその規範的性格を失っているのでしょうか。この点、成蹊大学の安念潤司教授は、実に面白い見解を述べています。『日本政府の憲法解釈論は実に見事なアート』である。そして次のように続けます。その『規範的な意味は強烈に発揮してきましたよ。ICBM(大陸間弾道ミサイル)はもとより、長距離爆撃機だって大型空母だって、経済的・技術的には簡単に持てるのに、規範に拘束されてもてないのです。これでどうして規範的な意味をもてないといえますか』。さらに京都大学の浅田正彦教授も、『…規範的な性格や規範的な価値というのは、かなりあるのではないかと思っています』と述べられている(*4) 」

石原「9条2項は憲法条文として十分な効果を発揮している、という見解だ。山本さんはこの点どう思う?」

山本「実は私も、政府解釈を比較的評価しています。『戦力』を持ってはいけないのに『自衛隊』を持っている。これは完全に9条2項の拡大解釈です。しかし、許されない拡大解釈ではないと思います。そもそも憲法条文の多くは『ルール』ではなく『原理』だ、ということを思い出してほしいと思います。憲法の条文から一義的な準則を導き出すことはできない。あるいは、そうすべきでないとも考えられます。例えば、14条は『法の下の平等』を言っているが、『平等』概念が人それぞれ違う以上、そこから一義的な準則を導くことはできません。結局、14条は『平等』という『原理』が重要であることを命じているに過ぎない。別の言葉を使えば、それ自体が抽象的な憲法条文は、『ルール』よりも広範な『枠』を定めているのだといえます。9条も例外ではありません。やはり『ルール』ではなく『原理』であり、解釈の『枠』を設けているものでしょう。政府の解釈は、確かに拡大解釈ではあるが、私は辛うじてその『枠』の中に収まっている正統な解釈だと思います」
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石原「これは驚愕する。これでは条文はないがしろだ。私はやはり9条2項を改正し、正々堂々と『自衛のための軍隊』が存在することを認めるべきだと思う。自衛隊の存在は、結局憲法を疎かにしていることになる」

山本「しかし、先程の諸先生方の見解のように、一定の規範的意味を維持している以上、つまり『枠』を形成している以上、9条がまったく無意味化しているとはいえない。『枠』を形成する『軸』にはなっているでしょう。政府は『軸』が定める『枠』の中でぎりぎり解釈している」

集団的自衛権に関する議論に向けて

石原「昨年の6月末に、イラクの暫定政権にアメリカから政権移譲がなされ、自衛隊は自動的に多国籍軍に参加することになったが、これも『枠』の中の解釈か」

山本「痛いところですね。政府は、『自衛のための必要最小限度の実力』ならOKとしているから、集団的自衛権を認めていない。つまり、論理的に言って、自衛隊は自国を守るための『必要最小限度の実力』しか持っていないはずです。すなわち集団的安全保障ないし他国のために行使できる『余分な実力』を持っているはずがない。逆に、それが実現できてしまうと、自衛隊は『自国を守るための必要最小限度以上の実力』を持っているということになり、結局『戦力』になってしまう。つまり、これまでの政府解釈の『枠』は、自衛隊の任務が個別的自衛権に留まる、というところに引かれていた。こう考えると、多国籍『軍』への参加は、集団的自衛権の行使に近づき、9条2項の『枠』を逸脱する措置であったとも考えられます。もちろん、政府としては、多国籍軍の活動内容や、自衛隊の自律性などが維持される限り、これまでの政府解釈の枠内にある、と主張すると思いますが…」

石原「つまり、山本さんのように、いくら拡大解釈をとったとしても、現行の9条を前提とする限り、集団的自衛権の行使までは認められないということ。ならば、やはり集団的自衛権を他の先進国同様に認めるように改正を必要とすると?」

山本「難しい問題ですね。『集団的自衛権』という定義そのものも曖昧ですから。ただ、『枠』の存在を前提にする以上は、どこかで歯止めがないといけない。仮に憲法制定権力(改正権者)である国民が、国際協力という観点から一定の集団的自衛権を望むのであれば、やはり『解釈』ではなく『改正』でいくべきだ、ということになりましょう。そうでないと、やはり法の支配は崩壊する。問題は、集団的自衛権を憲法上書き込むべきか否か、あるいは集団的自衛権をどう定義すべきか、ということですね」

石原「私は当然書き込むべきと思う。話は結局、集団的自衛権に及びました。この続きは来月じっくりと議論していきたいと思います」

*1 前文では国連による安全保障形式を想定している。

*2 この点については芦部信喜『憲法・第3版(補訂版)』(岩波書店、2002年)58頁を参照されたい。

*3 もっとも、「持たず」「作らず」は、法律上規定されている(原子力基本法2条)。

*4 安念教授、浅田教授の見解については、「〔座談会〕憲法9条の過去・現在・未来」ジュリスト1260号(2004年)7-49頁を参照されたい。9条を語る上で必読である。